春に眠らん、 「ワク、」 そう名前を呼ぶと、囁き程度の音量だったにも関わらずワクは喉元で小さく唸りながら振り返った。私は思わず浮かぶ笑みを隠しきれずに、桜がきれいだねーなんて暢気なことを言いながらそっとワクの表情を伺う。眉間に浮かぶ皺は到底春の陽気にはそぐわない。私は笑ったままつんと自分の人差し指をワクのそれに当てぐりぐりと動かせば、もちろん非難の声が上がるのだけどさらりと無視してワクの皺を伸ばし続けた。 「皺、寄ってるよ。鉛筆が挟めるようになったら困るから伸ばしてあげる」 そう言うとワクは、はあと大きなため息を吐く。そしてジト目で、 「あのなぁ、俺宿題やってるんだけど」 しかもお前の数学のプリントをな! ったくなんで俺が、ぼやくワクに私は今まで手元で遊ばせていたプリントを眼前に突き付け、ワクのトーンを真似するようにしながら高らかに勝利宣言を下す。 「私も宿題やってるんだけど。しかもワクの国語のプリントをね!」 にこやかに、かつ爽やかに言い放つとワクのこめかみが一回だけ微かにひくついた。たらりと一筋流れる汗は暑さの所為ではあるまい。 ──つまり私たちはお互いの宿題をやり合いっこをしていたのだ。 数学が苦手な私は代わりに得意な国語を。 国語が苦手なワクは代わりに得意な数学を。 世の中はギブアンドテイク。明日に迫った宿題を片づけるにこれ以上効率のいい方法を私たちは知らない。タイムリミットは刻一刻と迫っているのだ、なりふり構うわけにいかない。来月の成績より明日の宿題の方が大事なのだ。あの先生、怖いしね。 「ワク、」 「ん」 「それ難しい?」 「お前が解けないくらいにはな」 「酷いなあ」 ねえ、宿題が終わったら近所の駄菓子屋で買ったお菓子とジュースを持って散歩でもしよう。ひらりひらりと舞い散る桜の中を歩くのはきっと気持ち良いに違いないよ。この心まで蕩けるような春の中で眠るのは羊水に揺蕩うみたいに心地良いよ。 微かな風に乗って換気のために人差し指ほど開けていた窓から入り込んできた薄いピンクの花弁に私はまた微笑んだ。 |