きっかけは些細なことであった。
 きのこたけのこ戦争よりも不毛で、24時間戦争よりは平和的な、そんな語るに及ばないような争いである。わざわざ文章に書き起こすまでもない。しかし、それでも我々の間に小さいながらも溝を作るに至った、ということだけは明記させて頂こう。
「あの、静雄くん?」
「……」
 そう、現に私はこうして静雄くんから無視をされているのだから。
 先ほどからいくら呼びかけても、ぴくぴくっと耳は動けど、けして視線がこちらに向くことはない。私はなんだか悲しくなってしまった。
「えっと、その、私も流石に悪いと思っているよ、ああ、思っているともさ。だから、あの、せめてこっち向いてもらえますか、」
 どうも口調に統一感がない。私もどうやら、中々焦っているようだ。ああ、だって、メイド服を着せたときだって、ビンタで済んだと言うのに、今回はどうだ、まさか凹んでしまうだなんて誰が想像出来ただろうか。自らの言動を思い起こしても、まるで心当たりがない。一体、どの発言が彼の心を傷つけてしまったのだろう。
「静雄くん?」
 ゆっくり手を伸ばす。静雄くんの身体が僅かに震えるが、それ以外はなんの抵抗もなく、彼の髪に触れることが出来た。猫っ毛なそれをやんわりと撫でる。
「……は、」
「うん?」
は、ノミむしと仲が、いいんだな、」
「うん……えッ?」
 え、なにそれこわい。そんなのぜったいおかしいよ。
 反射的に零れそうになった言葉を押さえつけるのに、私は大変な苦労を強いられることとなった。そして酷くぎこちない笑みとともに、その真意を問いただす。
「え、どういうこと。私、折原くんとは同じ学校だっただけだよ?」
「でも……からあいつのにおいがプンプンする」
「!」
 そして私はその原因に心当たりがあった。
(あンの野郎、そういうことか!?)
 ぶつん、と血管の切れる音がした。怒りにぶるぶる震える私の脳裏に先日のことが思い浮かぶ。

 そう、それはとあるトラブルに関して問いただしに行った帰り際、
「ちょっと、ゴミついてるよ」
「え?……ッ!?」
 その瞬間のことは記述したくない。が、進行上必要なことではあると思うので最低限のことだけ書かせて頂くと、つまり、まあ、振り向き様にちゅーをされた。深いか浅いかはご想像におまかせ……ああ、やっぱり他人の脳内でも折原くんにやられていると思うと大変不快なので、想像はしないで頂きたい。
「ん、な、なにす、……んぅ、……っ、ぁ……な、なにすんだこのヘンタイ!?」
「そんな処女じゃあるまいし。そんな目くじら立てるようなことじゃないと思うんだけど?」
「折原くんが相手だからだよ! 何考えてんだ本当! バカなの!? 死ぬの!? むしろ死ね!」
「俺だってが相手だなんて、ねえ? まるで色気の欠片もない女にちゅーするのがこんなにも空しいとは思わなかったよ。お陰で俺はひとつ学ぶことができたよありがとう」
「っくそ、白々しい……!」
 慌ててごしごしと口元を拭う。うえええ、と顔を顰めた私に流石の折原くんも眉根を寄せる。
「俺、顔は良いんだけどなぁ?」
「顔はね! でも性根がにじみ出てるからキモチワルイ」
「……酷い言い草。流石に傷ついちゃうなー」
 そう言ってくつくつと笑う様子に、苦虫をまとめて噛み潰して背筋に毛虫が這いずり回るような心地がした。
 苛立ちのまま私は事務所を飛び出した。背後で小さく呟く声が聞こえた気がした。が、そんなものは気のせいであると思いたい。
「まあ、マーキングってやつだよね。シズちゃんの顔が見物だなァ」

「……折原、コロス。ぜったいに」
 子どもの前だと言うのに、暴言を押さえられないほど私は怒り心頭だった。まさかこんなみみっちい邪魔を仕掛けてくるとは思わなかった。なんて小さいんだ。
、ずぼし、なのか?」
「何が、かな?」
「仲がいいんだろ、だって、」
 尻すぼみになって消えた言葉の続きはなんとなく予想がついてしまった。しゅん、と項垂れてしまった静雄くんの様子に何故だか胸が痛む。
 しかしこれはどう説明したものだろうか。理由が理由である、激しく憎悪してる相手と(不意打ちかつ不本意とはいえ)ちゅーしてきたからニオイも移っちゃいました☆だなんて、こんな子どもに言えるはずがない。さて、この場合における最善の行動とは?
 私は耳の垂れた静雄くんをそっと膝に乗せ、向き合う形を作ることにした。こつり、と額を合わせて視線をそらせないようにする。
「静雄くん」
「…………な、なんだよ」
「私の中で、折原くんはどちらかと言えば友人に部類されちゃうんだろうね。まあ、腐れ縁ってやつだ。でもねえ、あれは好きとか嫌いでいえば嫌いだな。実際嫌なヤツだし。知ってるでしょ?」
「……ああ」
「逆にねえ、私は静雄くんのことだーいすきだよ。君はちょっと他の人より力が強いだけで、本当はいい子だって知ってるからさ」
「……」
「だから大丈夫、私の中での優先順位は静雄くんの方が遥かに高いんだから。心配しなくていいんだよ」
「……うん」
 最善の行動──すなわち、話題のすり替えである。
 汚いやり口ということなかれ。大人なら誰でもやるだろう。むしろこんなやり方で静雄くんの機嫌が直るというのなら、私はむしろ喜んで汚い手を使おうではないか。別に騙しているわけではない。折原くんをウザイやつ、静雄くんを素直で可愛い子と思っていることは事実だからだ。
「でも今日は心配かけてごめんね?」
「もういい」
「そっか」

「ん?」
「次、ノミむしになにかされたら言えよ。おれがまもってやるから」
「!」
 傷ついたのは自分のはずなのに、それでもなお私を気遣おうとする様子に、心がちくりと痛んだ。
 ああ、この子は本当に。

「……ありがとうね、静雄くん」

 静雄くん。
 君にはそのまま成長してほしいだなんて願ってしまうのは、大人の我が侭だろうか。そうなんだろうなあ。





がいときずつきやすい
いきものです