「あ、」
彼女の見慣れた後ろ姿を見て、俺は思わず声を上げた。横にいたオッサンが怪訝そうな顔でこっちを見たのを軽く頭を下げることでかわす。少し気まずそうに視線を逸らしていくオッサンを横目に俺はするりと次の電車を待つ列の中に滑り込んだ。
今日はたまたま部活が中止になり、旦那の甘味所巡りにも付き合わされることもなく、珍しく早く帰ることが出来たわけだが、これは中々嬉しい偶然だった。彼女こと、さんは一学年下である旦那と同じクラスで、ちょくちょく目が合っては頭を下げ合う仲である。つまり進展は何もなく、ただの顔見知りであり、好きと言うのとも少し違うのだが――兎に角、俺としてはもっと話してみたいと思う相手なのだ。
『3番線に間もなく電車が到着します危ないので白線の内側までお下がり下さい――』
つらつらと流れるようなアナウンスが聞こえだすのと同時にホームがざわりと何かが蠢くような気配がした。それは人の気配であったり、今まさにやってくる電車であったり、それに対してさざめく何かであったりする。よく分からないそれらが俺は妙に好きだった。
ドアが開くと同時になだれ込むようにして車内へ押し込まれる。人と人の間を抜けるようにして席を見事確保したことに、ほっと息を吐きながら荷物を膝の上に乗せ、スクールバッグの外ポケットから音楽機器を取り出しヘッドホンを装着した。
流れ出したアップテンポな曲に合わせて指先を膝の上でそっと動かしながら、ちらりと一瞬目に入ったバッグが自分と同じ学校指定の、それだったことに気が付いた。おやと思いそっと横を伺い、思わず動きが固まる。
(……出来過ぎにもほどがあるでしょーよ…)
そう、隣に居たのは彼女だった。こくりこくりと小さく船を漕いではハッと顔を上げると言う動作を繰り返していて、それはもう眠そうな様子だった。妙に微笑ましく思いながらちらちらとそれからも横目で彼女を伺うものの、睡魔と戦うのに夢中で俺にも俺の視線にも気が付いていないようだった。喜んで良いのか非常にフクザツな気持ちである。
話しかけてもいいけど、しかしなんとなく彼女のふらふらとした動作が可愛いものに思えて、もう少し見ていたい気もする。
(……んー、まあ、向こうも眠そうだし、いっかぁ)
そう思い直して、俺は音楽の世界に浸るためにそっと目を瞑った。さっきまでの曲とは違い、今度は落ち着いたテンポのものが流れ出す。今日の献立を考えながら、自分の降りる駅までの残り時間を潰すことにする。
ご飯とお味噌汁、ほうれん草のごま和えと筑前煮、鮭の西京焼。脳内に浮かんだメニューと冷蔵庫の中身、それと昨日のうちにチラシで確認した、近所のスーパーでお買い得なものとを照らし合わせる。さて電車のアナウンスは最寄り駅が次であることを告げているしそろそろ、
「…………」
しかしここで予想外の事態が起きてしまった。いやある意味では予想通りと言うべきか。いやしかしこれはあんまりにもベタじゃあないかなあと俺は思う。
「……ふ、んー…ぅ」
すやすやと非常に健やかな寝息とも寝言ともつかない音が耳元でする。言うまでもなく彼女のものだ。そしてさらにわざわざ明記するまでもないと思うけれど、この状況と言うのは電車で横の人の肩に凭れ掛かって寝てしまうと言う、ありがちなものだった。
「おーい、さん?」
小声でそっと肩をつつく。ふらあと頭が微かに揺れたかと思うとそのまま、ごちんとまた俺の肩に頭を打ち付けた。骨と骨がぶつかって結構痛かったのだが、彼女は全く起きるそぶりは見せなかった。
かなり熟睡中のご様子である。さてどうしたものか。
がたん、ごとん
気付けばもう自分の降りる駅はとっくに過ぎていた。彼女の降りる駅は知らないが、終点まではあと片手で数えるほどだ。やっぱりそろそろ起こした方が良いかなあと思いつつも、どうにも無防備な寝顔を見ていると“もうちょっと”と言う気持ちになってしまう。こう言うところがあのいけ好かない独眼の男だとかに“てめぇは母親みてーだな”と言わせるのだと思うのだが、如何せん、もうこれは習性を言っても良いくらいに自身に染み付いたものだから今更どうしようもない。
「……どうしたものかね」
自分にしか聞き取れないほど小さな声で思わず呟く。ちらりと見下ろした彼女の寝顔は酷く健やかで穏やかだった。ここまで人に無防備な姿を見せても良いのだろうか。もしこれで俺が変な親父だとかで如何わしい勘違いを起こしたらどうするのだろう。そう思えど、答えをくれる相手は夢の中だ。
思わず吐いたため息は彼女の前髪を揺らしただけだった。
「本当にごめんなさいすみません…!どうお詫びをしたら良いものか…!」
ずっと下げたまま一向に上がる気配を見せない彼女の頭に俺は慌てた。
「いやいやいや、起こさなかった俺様も悪いし、ね?そんな謝んなくてもいいってば!」
「いえ、そもそも凭れ掛かると言う行為がいけないのです。猿飛先輩、重かったでしょう?本当にごめんなさい、今日はどうにも疲れていて……いえ、ただの言い訳です。すみませんでした…!」
そう言ってふるふると微かに震える彼女は、終点に着き“流石にそろそろ”と思った俺に起こされてからずっとこの調子だった。何度もう良いと言っても頭を上げてほしいと言っても、この状態。本人の気持ちはもう分かりすぎるほどに分かったからいい加減自分を許してやれと思うのは紛れもなく、周りの視線が突き刺さるからだ。本来目立つことはそんなに好きじゃない。それに彼女をこんなに謝らせているのは、あきらかに俺の所為でもあるのだ。起こすのが忍びなかったとか言ったら彼女の瞳はどれだけ丸くなるのだろう。
「…っ、あー、もう!ちょっと、さん、こっち!」
ぐい、と。少し乱暴だったかなと頭の片隅で思いつつも、彼女の腕を引いて隅の方へと寄った。振り返った先にはきょとりと目を瞬かせる彼女がおり、それがやけに可笑しく感じられた。
「ね、俺様もう気にしてないしさ、さんももう謝らないでよ。そんな謝られる方が困っちまう」
「!そ、それはどうもすみま……もが」
「はーい、謝るの禁止ー」
小さな口を自分のかさついた手で押さえると、彼女は非常に困ったような顔をした。ぎゅうと寄せられた眉は綺麗な八の字を描いている。控えめに腕を叩かれたのを合図に俺は手をパッと離した。
「寝ちゃったさんと起こさなかった俺様。どっちもどっちと言うことでチャラにしようぜ」
「でも、」
「それ以上謝られても困るって言ってるのに続けるだなんて、さんって酷い人だね」
「…………先輩こそ、ずるい人です」
「あらら、言うじゃない」
そうやって言葉を重ねていく内に、どんどん彼女の表情が和らいでいくのが分かった。ほっこりとしたそれは、まるで春の日差しみたいで、一緒に居るとこっちまで顔が緩んでしまう。
自分が彼女ともっと話して見たいと思ったのはつまり、こう言うことなのであると気付いた俺は取り合えず、
「……まあ、冗談は兎も角、折角の機会だしさ、お友達から始めちゃおうよ」
ベタなところから外堀を埋めて行くことにした。