あ、しまった。
 は抱えていた書簡(幸村に渡すよう言われたものである)を片手に抱え直し、右手の人差し指で唇をなぞった。ぴりぴりとした痛みから察するにどうやら端の方が切れてしまったらしかった。小さく眉を顰めつつ、幸村が唸りながらも真面目に仕事をしているであろう政務室へと向かう。切れたところをちろりと舐めるとやはり痛かった。最近空気が乾燥している所為だろうが、でもまあいずれは治るであろう。そう結論付けて彼女はそのまま歩を進めた。
「あれ、ちゃん唇切れてるよ。血ィ滲んでる」
 いつの間に居たのだろうか。
 伏せていた瞳を上げると目の前には飄々とした忍びが居た。珍しく何時も見るような忍び装束ではなく、若草色の地味な着物を身につけ、まるで下男のような格好をしていた。どうやら今日は特に仕事がないらしい。何時も忙しそうにしているようなので、素直に休みで良かったとは思う。もちろん、小脇に抱えた団子さえなければだけども。たとえ仕事はなくとも、お使いはあるようだった。
「知ってますよ」
「痛くないの?」
「気にしなければ」
「でもさっきからずっと舐めてる」
「……少し痛いですね」
 誤摩化しても意味がないことを悟りは大人しく降参した。この人を食ったような忍びを出し抜くなど出来るだろうか、いや絶対に出来ない。思わず心の中で反語を使って強調してしまうくらいには、無理なことなのだと彼女も知っている。
「でもすぐ治りますよ」
「そう?最近空気が乾燥してるからねえ。気を付けた方が良いよ。かく言う俺様もちょっとだけ危なかったりしてー」
「大丈夫ですか?」
「うん、俺様特製塗り薬があるからね。あ、ちゃんにも分けてあげようか?」
「そうして頂けると嬉しいです」
「そう言うと思った!」
 へらりと何時ものような笑みを浮かべる佐助には少しだけ首を傾いだ。何か、嫌な予感がする。しかしかと言って純然なる好意を向けてくれている相手に対して意味なく後ずさるのも如何なものかと思い、じりと半歩分だけ重心がずれるだけに留まった。しかしそれを見逃してくれる相手でもないから、どーしたの?なんて軽い調子で問われる。は小さく首を振って、視線を廊下の木目に寄せた。本当に自分でも無意識だったのだ。
「いえ、」
「ふぅん?」
 佐助の浮かべている笑みはやはり何時も通りの、見慣れたそれだ。は首を振りながら僅かに瞑目し、書簡を抱え直す。ごそごそと懐を漁る音に今度は視線を上げて、佐助がゆっくりとした足取りで向かうのを見つめた。
「ほら、顔上げて」
 すらりと指が長く無骨な手が添えられくいとの顎を持ち上げる。かち合った佐助の瞳の色はよく読めなくって、彼女は僅かな困惑を表すかのように眉を僅かに顰めた。次の瞬間、
(――べろり、)
「!」
「これ、気が付いたらこまめに塗るんだよ?分かった?」
 状況を把握出来ずに、大きく目を見開いたままは固まった。佐助の言葉に条件反射でこくこくと勢い良く頷くのだけで精一杯だった。そんな彼女を見て、佐助は至極満足そうに笑いながらその手に塗り薬を握らせ、軽い調子で手を振ると音もなく廊下の影に消えた。佐助の消えた方向から視線を外せないままはずるずると柱に凭れ掛かる。佐助に舐められた所為で微かに濡れた唇がぴりぴりと痛くて、無意識の内に指で切れたところを反芻するようにして撫ぜた。はあ、とため息とも何とも付かない息が思わず零れた。

「…………さすけさんの、は、れんち…」
 呟いた言葉が惜しくもこれから会う上司の決まり文句だったことに気付いては小さく笑おうとし、しかし結局頬を引き攣らせたまま固まった。
 顔の赤みが引くまではもうしばらく膝に顔を埋めたまま動けなそうだった。



嫌がらせ