「ひっぎゃあああぁあぁぁぁああぁあああ!?!!?!?!?」

 ぴく、と男の耳が動く。どこからともなく悲鳴が聞こえて来たような気がしたからである。音源を探そうと辺りに、その好奇心に光る瞳を這わす。が、特にそれらしいものは見つからず、こてりと首を傾いだ。「おっかしーなー、確かに聞こえたと思うんだけどなー?」そう小さくごちながら男は、ゆるやかに吹く風でずれた帽子の位置を直し、再び釣り糸を垂らした。
 風は爽やかで日も穏やか。まさに絶好の釣り日和としか表現出来ないほど緩やかな、そんなある午後のことだった。





(しぬ、死ぬシぬしぬうううぅぅうう!!!!)
 びゅんびゅんと耳元で風を切る音がする。瞼はすでに風圧に負けており、とてもじゃないが、開けてなんかいられない。悲鳴もあげた先から風に飲み込まれていく。乾いた喉が痛い。私はただ、生理的な涙をぼろぼろ流しながら、ひたすらに落ちていった。
(ああ、どうしてこうなったんだあ!)
 私が一体何をしたんだ!と思えど、ここは気候の変化が激しいグランドラインである。そんなもん、ただの気まぐれに過ぎないのだ。
 そう、私が一人ぎいこらばったんと船を進めていた時に突然の高波に攫われて、そのまま海上数十メートルからのダイビングをする羽目になっていたって、全てはその一言で片付いてしまうのだから、なんと腹立たしいことか!やっぱり、一人で海に乗り出すのは無謀だったと言うのか神様!でも一緒に言ってくれる人居なかったんだもんよ!あくまで平和な島だから!みんな漁業してるのが良いって言うんだもん!
(ああ、わずか三ヶ月にして私の旅は終わった……!)
 何も考えずに飛び出した割には保った方なのかもしれない。それに今まで泊まった島だって良いところばかりだった。あ、なんか色んな景色が凄まじいスピードで脳裏をよぎるんだけど、これってもしかしなくとも走馬灯ってやつだろうか。しかも、気付けば海面超近い。どうやら永久に続くかと思ったダイブも終わりが来たようである。つーか、やべ、もうぶつか────
 目の前が真っ青になった瞬間、私は自身の視界に暗幕を引いた。だって、自分のぶつかる瞬間なんて、見たくない。





びく、と震えたかと思えば、竿が限界までしなった。男の頬がにっと笑みの形を作り、「来た!」歓喜の声が甲板に響く。思いっきり地面を踏みしめ、竿を握る腕に力を込める。それなりの獲物のようだ、しかし暴れることもないし、抵抗も少ない。男のかけ声が決まったその瞬間、太陽に照らされ、きらきらと逆光になった獲物が海面から姿を表す。ひゅん、と綺麗な弧を描きながら甲板へと叩き付けられたそれは────

「……あり?」

 ────人、だった。
 ぐったりと倒れ込み、顔は濡れた髪の毛が張り付いて良く分からない。ただ、その白を通り越して真っ青になった顔色は、明らかに溺れた人間の様相である。また、小さく筋肉のあまりついていない体付きから察するに、女のようであった。胸が浅く上下していることから、まだ息もあるようだ。
「ちょ、おまえ、大丈夫かー?」
 そう声をかけながらぺしぺしと頬を叩いてみても、眉間に小さな皺を刻むだけで、起きる気配はない。
「おーい、起きろって」
 今度はほっぺたをむにゅ、とつまむ。自身が持つゴムの頬とは違い、つまんだ指がふんにゃりと沈むソレに男の瞳が大きく見開かれる。「やらけーなー」先ほどまでとは明らかに違う意思を感じさせる触り方で、男は女の頬をむにむにといじった。
「こりゃデッケェ獲物が……って、こんなことしてる場合じゃねェんだった!早くチョッパーに診せねェと!」
 そこでようやく男は本来すべき対応を思い出す。ぐってりとした女のわきと膝の裏に腕を通し、医務室へと向かった。

「チョッパー、一人診てやってくれ!」





(…………う、ぇ……)
 身体が異常にだるい。頭に酸素が回ってない感じで、ぐわんぐわんする。目を開けるのすら億劫だ。このふかふかベッドから動きたくない。
(……ん?ちょっと待った待った、)
 そこまで考えて、私は自分で自分にツッコミを入れる。そもそも私って海に思いっきりダイブしてなかったっけか。最後に見たのは視界を埋め尽くす青い世界だったはずだ。──なのに、今、私は、どこに居る?
 ぼんやりとした意識の中で把握出来るのは、白い天井、消毒液の匂い、柔らかい毛布、ごりごりと何かをすり合わせるような音、すり鉢の前で手(っつーかヒヅメ)を動かすタヌキ。って、おい!最後のは何だ!タヌキ居るぞ、天国にはタヌキが居るのか、そうなのか!
「……ッ!!!」
「あ、気付いたのか?大丈夫、ちょっと水飲みすぎただけだからな」
「た、」
「?」
「タヌキが喋ってる超可愛い……!あ、それともぬいぐるみかなあ!?」
「おおおおれはタヌキでもぬいぐるみでもねーぞ!?それに可愛いってゆーな!おれは男だ!」
「……っ、う」
「ああもう、無理すんなって!」
 急にこみ上げて来た不快感に眉を顰める。それに気付いたらしいタヌキくん(仮)が慌てた様子でこちらに駆け寄ってくる。ああもう、いい子だなあ!タヌキだけどエンジェルすぎる!
「あ、だいじょーぶ、」
「そう思ってても身体は疲れてんだから、もうちょっと寝てろよ」
「えっと、それよか、ここはどこかな?」
「ん?ここは海賊船だぞ。麦わらのルフィって知ってるか?」
「……え、ま、まさか一億の人……とか?」
「そうだ」
「…………わあ、」
 むしろ、それを知らないヤツが居るのかと問いただしたい。新しく出来たばかりだって言うのに、様々な事件を起こしては去っていく連中ではないか。あのバロックワークスすらも潰したらしいではないか。え、なにそれこわい。ヤバいじゃん。私、もしかしなくとも、今すごくピンチなんじゃ……。
「だいじょうぶか?」
「ひぃっ!?……あ、あああ、あの、私のこと、ど、どうするつもりなの……かな?」
 こんな可愛い顔して、この子割とやるもんなのかもしれない。
 体調も万全でない私が、敵船内で、一体どこまでやれると言うのか。
 じり、と私はそれでもベッドから下り立つ。未だにずきずきと響く頭痛には、構っていられない。流石にあんな可愛い子を睨みつけることなんて出来ないが、それでも警戒してますよ、と言う視線だけは送っておく。
「別にどうもしないからな!そもそもどうにかするつもりなら、最初から手当なんかしないだろっ!」
「……ッ」
 言われてみれば。そんな気もする。ああ、でもそう思わせておいて、後からどうにかするつもりなのだ等と考え始めたら…………キリがない。だって、相手は海賊なんだから!
 じりじりと、お互い、距離をはかる。自分の心臓の音がやたらとデカく感じた。
 がちゃり、背後でノブの回る音がする。私はさらなる警戒を辺りに巡らせた。
 …………って、ノブ?ドア、の?

「お、お前、元気になったじゃん。平気か?」

 勢い良く振り向いた先、そこには、麦わら帽子を被った男が眩しい笑顔で佇んでいた。
「!!!?!」
 ──嗚呼、母さん、父さん、私、もうダメかもしんない。
 前門の虎、後門の狼どころじゃあ、ない。それよかもっと、すごいもんが私を囲んでいるのかと思うと(だって賞金一億って!)、猛烈に泣きたくなった。しかし、実際浮かんだのは、何とも情けない笑みでしかないのであった。
(冒険に心躍らせた三ヶ月前の自分、マジ謝れ、死の淵に立ってる今の私に超謝れってんだ!!!)
 そう自分を叱咤しても、もう遅い。ぶわああ、と汗腺が開く様子すら分かる気がした。
 ──だらだら。
「ひ、あ、あああ、あの、」
「何だお前、ひでェドモリだなー」
「あ、あう、あ、えと、」
 ──だらだらだらだら。
「お前、名前は?」
「え、っと、そ、その、」
 ──だらだらだらだらだらだら。
「エット・ソソノ?変な名前だな、おもしれェ!」
「違ェよだよ!!あんた、流石にそれはワザとだろ!!?」
 その瞬間、持ち前のツッコミスキルが発動した。そしてそれは、さっきまでだらだらと流れていた冷や汗がすぅと引いた瞬間でもあった。今更だが私は馬鹿なんじゃないか!?なんつー無謀なことを!一億相手に何、ナチュラルにツッコミ入れちゃったの!?
「……ええ、えっと!い、今のはですね……」
 私はどうにか弁解しようと顔を上げた。このままでは愉快な死体を晒すこととなる。だって、一億って。しつこいようだけど、一億って。私の漁村では元200万ベリーの賞金首が来ただけで大騒ぎだったと言うのに(元と付くだけあってすっかり気の良いオッサンになってた)、そんな、五十倍とか……。想像も付かない、と言うのが正直なところだ。
 ひいいい、と内心悲鳴を上げたまま、私は、男の機嫌を伺おうとした。しかし、その顔は麦わら帽子に隠れてよく分からない。ま、さか。ぶるぶると震える肩は怒りと武者震いってヤツか!やばい、逃げ、
「うっひゃひゃひゃひゃ!!!、おま、本当におんもしれェなー!」
「!?」
 男が突然、大きく口を開けて笑い出した。びっくぅ、と反射的に跳ねた私の肩を男の手が掴む。
「お前、おれの仲間になれ!」
「は…………はぁああぁ!?」

 ──なんだよその超展開は!



続……かない!