うっすらとぼやける視界の中で、私は息を吐いた。身体中の疲れがじんわりと湯船の中に溶け出していくような気がして、きもちいい。やはり、シャワーだけでは物足りないからといって、大浴場に来たのは正解だった。その代わり夜時間はオーバーしてしまっているのだけど。少し、申し訳ないことをしたと思う。
何度かお湯を顔にかけ、頭のてっぺんまでそれに浸かる。風呂場の作法としては不適切だけど、このたゆたう心地よさには変えられない。じっと息を止め、ゆっくりと時間を数える。それが30に近づいたところで顔をあげれば、すっかり身体は温まっていて、肌もほのかに上気していた。よく見れば、指先もフヤケている。まるで干しぶどうみたいだ。そうやってぼんやりと視線を泳がせていると、ふと奥に続く扉が目に入った。
「……んー、サウナでも入ってみようかなぁ。初サウナですよ、初サウナ。ふふ、折角自分一人なんだし、満喫しないとね」
風呂場では、どうしてこうも独り言が多くなるのだろう。返す人も居ないまま、ただ自分の声だけが辺りに反響した。
私はタオルを巻き付け、サウナへと足を進める。引き戸を開けた途端に熱気が押し寄せてきて、一瞬足を引きかけるが、どうにか戻して自分を鼓舞した。大丈夫、すぐ出ればいい。それに何事も体験してみなければ面白さは分からないのだ。納豆を食べたヤツを見習え、尊敬しろ。とズレた思考を繰り広げながら、中に入る。あつい。否、暑いことこそサウナの存在意義なのだから、間違ってはいないが、それでもこの暑さはどうなんだろう。
「はふ、」
自分の呼吸すら、あつい。
じっとしていると、汗腺が目一杯開いて大量の汗を吐き出し始めた。そこで私は、あまり水分を摂らずに入って来てしまったことに気付く。サウナってどのくらい入るのが適切なのだろう。10分くらいだろうか。あまり長居すると、脱水症状とか起こしてしまうかもしれない。
そんなことで倒れるのは勘弁、と水でも飲みに行こうとしたその時だった。
──がた、
外から音が聞こえてきた。私は思わず身を震わす。どうやら誰か来た、らしい。なんてタイミングの悪い!と内心舌を打った。相手が女の子だと良いのだけど、もしかしたらというのもあるかもしれない。私はそっと引き戸を開き、もうもうと立ち上る湯煙の向こうに目を凝らす。
「……!」
──駄目だ、出られない。
ざばぁんと豪快に湯をかける姿からして、あれは男だ。見覚えのない後ろ姿だが、間違いない。どうしよう、どうしようと頭の中で思考がぐるぐるととぐろを巻く。サウナから爽やかに立ち去るには、タオル1枚ではあまりに心もとない。こうなったら、彼が出るまで待つしかないのではないだろうか。ああ、それが一番マシな気がする。男だし、長風呂にはならないだろうと淡い希望を寄せる。
(……ああ、それにしても、)
あつい。取り込む空気が内部から身体を熱くさせる。むやみやたらと動くのは得策ではないだろうと、隅っこに身を寄せて静かに息を吐くが、あまり意味を成していない気がした。せめて、ペットボトルの一本でもあれば違っただろうにと思っても、後の祭りとしか言いようがない。あつい。脳みそまでとろけさせられたのではないだろうか。頭がまるで回らない。気付けば、同じ言葉がひたすらに繰り返される。
(嗚呼、暑い、あつい、あつい、あつい、あつ────……、)
*
「……ぃ、……お……きか……」
遠くから声が聞こえる。
もう、なんだようるさいな。そんなに揺らさなくても起きてるってば。頼むから頬を叩かないでくれ。
纏わり付く手が嫌で、それを払いのけようとするが、どうにも力が入らない。ぺしょり、と無様に私の手がまた腹の上に落ちた。
「……ん、ぅ」
「お、気が付いたみてェだな」
「……」
うっすらと目を開く。
誰かが私を見下ろしていて、でもそれが誰なのかは蛍光灯が逆光になっている所為で分からない。頭が、ぼんやりする。声を出そうとしたら、随分と舌足らずなものになっていてびっくりした。
「……、だれぇ」
「あー……平気か?水、飲むだろ?」
目の前にペットボトルが差し出される。それを受け取るために身を起こそうとすると、すかさずその誰かが私の背中を支えてくれた。ありがたい、お陰で随分と楽になった。貰った水は少しぬるかったけれど、むしろ飲みやすく、身体が勝手に飲み干してしまう。ほう、と思わず息を吐いた。
さあここまで面倒を見てくれた相手だ、ぜひともお礼を言わねば、と顔をあげる。
そして口から零れた第一声は、
「……あんた、だれ」
だった。
いやいやいやいや、本当に誰だ。こんなロン毛野郎を私は知らない。
「……てッめぇ……良い度胸じゃねぇかァ?誰が助けたと思ってんだゴルァ!」
「…………っあ、大和田くんか」
「あんまり調子に乗ってるとシバき倒……あ?」
「うんうん、その口調と声色は大和田くんだね。ごめんね、見慣れない姿だったもんだから」
「……おう」
「えっと、その、ありがとう」
ああそうか、リーゼントを解くと彼はこんな頭になるのか。私はクラスメイトの新たな一面を見た。元々切れ長な目と整った顔立ちをしているから、何だか様になっている。まるで別人だ。
こりゃ眼福眼福、としばらく視線を送っていると、大和田が何だか気まずそうに身をよじらせた。言いにくそうに、口の中で何度か言葉を濁らせたかと思うと、意を決したように声を発する。
「……あー……よォ、」
「なに?」
「お前、サウナで倒れただろ?」
「うん」
「……悪ィ、」
──てめェの裸、見ちまった、
「!!!」
言われた瞬間、私はさっと自分の身体を見下ろす。タオルは巻かれているものの、どこか雑で──そう、まるで誰か不器用な人間が巻き直したような──それを認識した途端、私は顔面がサウナに入った時以上に熱くなったのを感じた。
「あ、……ぁ、う……ううぅう……!」
「いいい言っとくがワザとじゃねーぞ!?俺がサウナ入った時にはすでに際どかったしよォ!た、ただ運ぶ時にだなぁ!」
「あ、う、うん……だいじょぶ、大和田くんは……そそんなことしないだろう、し……。そもそも、それ言わなきゃわかんなかったんだし、言ってくれた時点で、ね……うん、き、気にしてないよ!むしろごめんね!わた、私のはだか……とか……う、うう……っ」
正直死にたいと思った。そんなに顔を赤らめて言うくらいなら、いっそ黙ってて欲しかった。彼なりに罪悪感を感じたのだろうが、それにしたって何故このタイミングで言うのだ。こんな、お互いにタオル1枚と言う非常に間抜けな構図で、どうして気まずさを感じずに居られるだろうか。
私は俯いたまま、泣きそうになるのを堪えた。こんなことで泣いて、困らせちゃあいけない、だろう。
「……」
「……」
「…………、」
「……は、はい」
「すまねえ、」
「!?」
ぐ、と腕が引っ張られた。そして勢いよくぶつかった先は、
「お、おおわだ、く、」
「……やわっけぇ」
──音が近い。
全身が温かいものに包まれる。人肌の感覚。タオル1枚しか隔てていないそれは、私の全身を沸騰させるには十分過ぎるものだった。どく、どくと大和田の心音が聞こえる。随分と早い。でもきっと私も同じか、それ以上に早いんだろう。このままでは、一生分の鼓動を打ち尽くしてしまいそうだった。今私が死んだら、絶対こいつの所為だ。
「お、わだ、」
「ウルセェ、だぁってろ」
なんて理不尽な。そう思えど口には出来ず、代わりに身を小さく捩らせた。が、それをどう勘違いしたのか、大和田はさらに力を込めてくるものだから、骨がみちりと鳴って痛かった。ああ、私はただ据わりのいい場所を探していただけだと言うのに。
しょうがないから、そっと広い背中に手を添えてみたのだけど、どうにも返ってきた反応から察するに、私は随分と無茶な王手をかけてしまったみたいだった。何故って、
「ッ、てめ、もう俺ぁ、」
「ひ、ぁ」
──最後に見たのは、脱衣場の天井と、ケモノみたいな顔をした男だったからだ。
あ、終わったな、と私は思った。そして自らの運命を悟って、そっと目を瞑る。あの大和田くん、出来れば、優しくして下さい。その声は届いたかは知らないけれど、出来れば叶えられれば良いなと思う。