やけに切羽詰まった様子のナオくんに、気付けば私は壁際まで追い込まれていた。あ、と思ったが、そんなことはおくびにも出さない。あくまで想定の範囲内ですよ、と言う顔で見上げてみせる。ナオくんはとても体格が良いので、私に合わせるためか、すごく猫背になっていた。
 追い込んだのはナオくんのくせに、彼のやけに動物的な目は泳ぎに泳ぎまくっている。あちこちは忙しなく見遣るが、まるで私とは目を合わせようとしない。少し釈に障ったので、私は彼の名前を呼んだ。
「!う、ぁ」
 ナオくんはびくん、と身を震わせた後、ようやく私と目を合わせた。付き合い初めて早一年。ついに来たかと私はすっかり心の準備を済ませたと言うのに、彼はあーとかうーとか母音を吐き出すのに忙しいらしい。全くヘタレさんめ、と思うけど、そこがまた愛しい。
 どうせここまで来たんだ、いくらでも待っててあげようと思った瞬間、ナオくんがついに動いた。私は身構える。
 さあ、どんとこい──
「ああああのっさん、だ、抱きしめて、いいすか……!」
「え?」
 ……そっち?
 拍子抜けした。中トロだと思って食べたらトロサーモンだったくらいに。いや、どっちも美味しいのだけど。でも口の中はすっかり中トロ気分だっただけにびっくりした感じ。それに近い。でも、
「あ……うん。どうぞ?」
 どっちも美味しいことには変わりないので良しとする。
「しっ失礼します……ッ」
 律儀に断りを入れた後、ぎゅううっとナオくんが抱きしめてきた。大きい身体にすっぽりと収まる感じが心地好い。首筋に顔を埋めてくるところが、大型犬みたいで可愛い。私も嬉しくなって、その広い背中に手を回した。
「ッ、すんません!」
「え?……あ、あひゃぁあ!?」
 自分の身体が浮いたように感じた。実際にはナオくんが私のことを抱き上げたのだけど、急なことにびっくりした私は思わず彼の首筋にしがみつく。彼の太い腕は安定感があって、こんな体勢であっても落ちることはなかった。見惚れるほど均整のとれた身体は、けしてお飾りではないのだ。
「ななな、なに、どうしたの?」
「いや、なんか急に抱っこもしたくなって……さん小さいっすから」
「……そう?」
 そりゃ、ナオくんと比較したら小さいだろう。
「重くない?へーき?」
「鍛えてるからだいじょぶっす」
 それは鍛えてなかったら無理だったのかなーと思ったが口には出さなかった。大人なんだから、あくまで余裕ある態度で、だ。
「そう?じゃあその言葉を信じて、」
「っ、わ、っと」
 今度は私から、抱きついてみた。何時もと違う目線からの抱擁が新鮮で、つむじにそっと頬を寄せてみたりする。僅かに身じろぎする様子から、ナオくんの困惑が伝わってきて思わず笑ってしまう。
 頭を抱き寄せていた手を今度は彼の頬に宛てがい、そのままこつんと額をぶつけた。お互いの息が吹きかかるほどの距離で、鼻先がこすれ合うほどの近さでただ見つめ合う。そんな行為は、気恥ずかしいだとかそんな感情よりも先に、ただなんとなく、胸をほっこりとさせた。
「いいね、これ」
「ッ、あの、ちょ、ちか、……いっす……!」
「一年目にしてようやくの進歩だもの、またやって欲しいなぁ」
 ね?と同意を求めれば、ナオくんは大きく目を見開く。そして、真っ赤な顔でこくこくと頷いてくれた。
「もっもちろんです!さんが望むなら、いくらでも!」
 ──よし、その言葉に偽りはないな。
 そんな意地の悪いことを言って困らせてやろうかと思ったけれど、やはりここはぐっと堪える。
 だって、年上ですから。
 欲のない私はこのぬくもりだけで十分満足なのである。……もちろん今のところは、の話だが。