────ぱん、と地面がはぜた。
その音と同時にすぐさま壁に背を押し付けた私は、心の中で小さく舌を鳴らす。ぎゅうと握り直した鉄の塊が冷たい。薄手の黒いグローブ越しに汗ばむ、自身の手のひらに思わず自嘲の笑みが浮かぶのが分かった。ったく、格好悪いったらありゃしない。きぃきぃと金切り声をあげる心臓に内心また舌打ちをひとつしながら、じわりとあつい酸素を取り込もうと何度か息をひそめながら吸っては吐いてと言う動作を繰り返す。すう、はあ。ところで聞いた話だが、生きている中で心臓を鳴らせる回数は悲しいかな、どうやら決まっているそうだ。ならこんなことで、こんなところで私の寿命を易々と手放して溜まるものか、と言うわけである。この命は私のために在らず、あの人のために在る。
「、っは…あ、」
しかし、そうは言っても知らぬ間に息があがってきているのが分かる。つうと頬を流れる汗が顎を伝い、地面にほたりと染みを作った。両手は鉄塊を落とさないよう握り締めるので精一杯で、滴る汗を拭おうにも拭えないのがなんとももどかしい。さっきの音以来、静寂を保ったままの空気が吸い込むたびに肺を刺すようだった。くそ、動け、この足!
「あれ、ちゃんじゃねえの」
「!」
ばッ、と。
私は目を見開いたまま、反射的に、一足飛びに、今なら立ち幅跳びの自己新記録を余裕で塗り変えんばかりの勢いでその男──もちろんたった今話しかけて来たばかりの男のことだ──から逃げた。
──否、逃げようとした、のだ。
「ちょ、そんな人の顔を見るなり逃げようなんて酷ぇなあ。お兄さん泣いちゃうよ?」
「……勝手に泣いとけば良いでしょう」
「ああもう素直じゃないねえ、状況分かってる?今ちゃんピンチなんだからさぁ」
んなこと言われなくとも分かってるつうの。我々は敵対してるのだから。私はアーサー様の部下で、こいつはアーサー様の敵でありそしてそれはつまり、イコール私の敵だってことだ。憎きフレンチめ。むしろハレンチ野郎め。分かったらその掴んだままの私の手を離せ!
「おっと、そんな今に人を殺しそうな目で見つめるなって。ほら、お兄さんはマドモアゼルには優しいから。まあ、あのブリタニア野郎には手加減する気なんてこれっぽっちもないけどな」
「ならアーサー様の障害となりうる貴方を私は殲滅するのみです」
「あーもう、そうカタイこと言わずに。ちゃんにそんな無骨で粗野な拳銃なんて似合わねえって。やっぱり麗しい乙女には美しい薔薇が良いに決まってるっしょー」
「余計なお世話です」
「あれま、釣れないねぇ」
その程度の撒き餌に釣られる阿呆女がこの世界のどこに居るとでも?目の前?バカにするんじゃない。思わず目尻がつり上がっていくのが分かる。眉間が深く刻まれていくのも。そしてその後、知らぬ間にため息が零れた。どうにもこの男、掴めないのだ。飄々として、まるで糸の切れた風船のようで。何度か顔を合わせたことはあれど、しかし今の今までどんな人間なのかは分かってはいない。なんとなく話してると自分が阿呆になった気分になってそれが不快だってことくらい。
「それにしてもあれだな、折角の出会いだ、ディナーでも一緒にいかが?なーんてハァハァ。あ、いやお兄さん別にやましいことなんて考えてないからね、あわよくばそのまま夜も一緒になんて考えてないから」
────前言撤回、ただの変態だこいつ。そんなニヨニヨした顔に説得力があると思ってるんじゃねえ。本当に阿呆みたいじゃないか。
私はこめかみがひくつくのを感じつつ、にっこりと自分の中で極上の笑みを作った。握り直した拳銃の引き金に指をかける。セーフティーはとっくに降ろした。弾もたっぷり詰まっている。だから、
「お前なんぞ、アーサー様の平穏と私の安息のために笑って──去ね」
かちり、と撃鉄の上がる音と同時に偽物みたいな酷く軽い音がした。パンッ。火薬の爆ぜる反動を受け、腕が跳ね上がる。くらりくらりと世界に呑まれるような目眩がした。
ああ、
「やっぱりちゃんには拳銃なんて似合わないな」
何故か目の前には殺したはずの男と赤い紅いあかい、薔薇。
「麗しいマドモアゼルには美しい薔薇がよく似合うものさ」
────さあ、撃鉄がもう一度上がり彼の眉間に穴をあけるのが先か、それとも彼の差し出す薔薇が私の心に突き刺さるのが先か、当てて見せて。
薔薇と拳銃の確率論